ぼんやりしてても願いは叶うのか?改、ぼんやりしてたら願いは叶わない!

ゆるっとまるっと引き寄せ体験についてのこと。

ひかりの車窓から。

f:id:yurumaruhikiyose:20170429213050j:plain

 

今日は京都から茅ヶ崎へ帰宅。

 

帰りの新幹線の車窓から、ふと、

あの辺りが気になるなあと思ってずっと見続けていたら、

だんだんと色がはっきりしてきて虹が出てきた。

 

アーチは見えなかったけど、きっと繋がってたんだなと思う。

 

何か吉兆のサインかもしれないと思ったけど、

虹を見れたこと自体が嬉しい。

 

ずーっと見えなくなるまで見ていた。

 

虹の始まり。

 

さて、どんな始まりを繋げてくれるかな。

 

見えなくても雲の中に繋がってたアーチのように、

今ここからどこかに繋がり始めているのかもしれない。

 

どんな風に思うのも自由。

引き寄せはそう思えばそうなる仕組み。

 

その辺については、また明日!

生きることって責任があるんだ。

f:id:yurumaruhikiyose:20170428215613j:plain

本日は茅ヶ崎に戻る準備や買い物、仕事、料理という感じの1日。

 

料理してた時に、今更ながらあらためて気づいたことがある。

 

昨夜から砂出しで買って来たアサリを水に浸けていて、

それを鍋に移したときに、

 

貝の中から、にゅっと管を出して息をしてるアサリを見て

生きているものを殺して食べるのだという実感が急に湧いた。

 

それは野菜でも、もちろん肉もそうだし、

生きるってことは、何かの命を奪ってるということ。

 

小学生の頃の教科書に載っていた石垣りんの詩を思い出した。

アサリでなく、シジミ。

 

『シジミ』

夜中に目をさました。
ゆうべ買ったシジミたちが
台所のすみで
口をあけて生きていた。

「夜が明けたら
ドレモコレモ
ミンナクッテヤル」

鬼ババの笑いを
私は笑った。
それから先は
うっすら口をあけて
寝るよりほかに私の夜はなかった。

 

もっと意識的に生きねばと思った。

どうしようもない事実と向き合って生きることが、

自分の人生に責任を持つことの一つだと思う。

 

今まで生きることに無責任だったなと思ってたら

急に泣けてきた。ごめんなさいと呟いた。

 

なんでそんなことを思ったかというと

たぶん今、自分の中で食べる、ということにフォーカスしてるからだと思う。

少し今までと違うやり方で。

(これについてはもう少し経ってから書くかもしれない)

 

メソメソとしてるようだが

でも実は違って、お腹からチカラが湧いてくるのだ。

 

死ぬまで生きるぞ!と。

 

そんなことを考えながら洗濯物を畳んでいたら、

窓からの夕焼けが美しくてまた泣けた。

 

 

引き寄せなんて、正直もうどうでもいいかもなって

今日は思ったので、これにておしまい。

 

まあ、こんな日もあります。

 

今日のお告げ、のようなもの。

f:id:yurumaruhikiyose:20170427231039j:plain

本日はフリーの日。

遅く起きて、何をしようかと思ってたら、

そろそろ茅ヶ崎に戻る日が近づいてるので冷蔵庫の食材整理をせねばと思い出し、

昼ごはんの準備。

YouTubeで音楽を聴きながらノリノリでぶり大根を煮る。

ノリノリで踊ってたら危うく焦がしそうになった。

ノリノリでブリをコゲコゲにしたら

ホトホトガッカリしたと思うので気づいて良かった。

 

料理って身近に引き寄せできる一つだと思う。

食べたいものを調理して出来上がり食べる。

さっきまで頭の中にイメージしてたものが味わえるのだ。

たまにアレ?違ったかなということもあるけど。

今日のぶり大根は作ってる最中に出来上がりの味がイメージ出来て、

わたしって天才だわ!と心の中で叫びながら作ってたら、

やっぱり美味しく出来た。気分も味に影響する。

 

その後、高野川沿いを少し散歩しようと出かけたのだけど、

気分良く歩いてたらいつの間にか糺ノ森(下鴨神社)に着いていた。

参拝していこうと境内に入ったら、

本日のお告げ、のような掲示板に出会った。

 

列にお並びになる必要はございません。

神様はどこから拝んでもお見通しなのです。

 

礼儀作法は大切だけど、

並んで真ん中でどうしても拝みたいというのは、

よく考えたら、「私だけを見て!」という主張にも取れるので、

混んでいるならば傍の方で拝んで帰る方が謙虚だよなあって思う。

 

端っこで拝んでも神様はきっと見てるってこと。

 

参拝してゆっくり森を抜けて帰ろうとしたら、

曇り空からさーっと日が差してきた。

もうすでに願いが叶った気持ちになる。

 

出町柳まで歩いて戻り、買い物して叡電に乗ったら、

以前に入会してた気功協会の先生方がいらっしゃるのを先生方が途中駅で降りるところで気づいた。ああ、○○先生!と呼びかけようと思ったけど、

退会してしばらく経つし、わたしのことなんて覚えてらっしゃらないかもなどといらんことを考えてしまって、咄嗟に動けず。

ご挨拶できなかったことにしばらくクヨクヨしてしまった。

 

帰宅後に買ってきた植物の植え替えをして、その可愛い葉っぱを見てたら、

だんだんと落ち着いてきた。こういう時もある。

 

しかし、昨日も友達と気功協会の話をしてたばかりなので、

今日の遭遇も引き寄せと言えると思う。

 

時々ある引き寄せ。

話してたり思い出してるとその人に翌日か数日後に遭遇すること。

連絡しようと思ってたら街でばったり会うとか。

友人、知人だけでなく、面識のない芸能人とかミュージシャンのこともある。

 

昔、三茶で若い男の子とお茶してて、音楽の話になって、

「僕、コーネリアスのファンなんです」っていうので、

わたしはまだ会ったことないけど、三茶にいるらしいよ、帰りに会ったりしてね、

なんて言って、本当に帰りに歩いてたら、サーティワンアイスを食べながら今まさにバスに乗るとこのコーネリアスが居て、びっくりしたことを思い出した。

男の子はまるさんスゲーっす!と更にびっくりしてた。

その後も、彼が欲しいと狙ってたガチャガチャの何かのシールみたいなのを引き当てたりして、更に絶賛された。

よくわからないけど面白い日だった。

 

今日の先生もそうだけど、

何かを集中してされてる人には独特の気配があって、

きっとそれを前もって察知するんじゃないかと自己分析してみたり。

でも、ほんとは何故かはわからない。

 

今日のお告げを参考にすると、

列に並ぶように、正当なやり方でなくても、

起こることは起きるってことですかね。

 

あ、そして願いが叶ったのか、

新規のご予約いただきました。

 

ありがたやー。

 

叶った願いについての考察#?

f:id:yurumaruhikiyose:20170426203907j:plain

今日は朝から雨の一日。

午前中の仕事が終わり、昼食を軽く作って食べて、傘をさして出掛けた。

水曜日だけ出現するお気に入りの焼き菓子と紅茶の店へ。

本日はテイクアウトのみだったので、チョコレートブラウニーを買って、

隣町のこれまたお気に入りのカフェへ歩いて行った。

 

カフェでくつろいでいると、入れ違いで、ご近所友達も先ほどの店にチョコレートブラウニーを買いに来たと連絡が入っていたので、今、カフェにいるよと返信したら、

友達もやって来た。その後、ゆるく約束してた別のご近所友達も合流。

夕方までいろいろ話す。

仕事も出来て、

会いたい人に今日も会えた。そのおかげでいつもより深く息が吸えた感じだ。

 

でも今日は雨のせいかぼんやりしていて、話を聞いてる時に、眠くなってきた。

ああ、今日は新月かと思い出す。

牡牛座新月占星術的には本当に望んでいることを願うといいらしい。

素直に具体的に。

 

そういえば、数年前まで、

新月の願い事をしてたっけ。

新月の日から48時間(だったような気がする)以内に、

10個くらい、願い事を

〜なりますように、ではなく

〜なります。〜なりました。と叶ったように紙に書くというもの。

書いたらどこかにしまって忘れる。

 

そして本当に忘れてて、最近、その紙が引き出しから出て来たら、

だいたいの願い事は叶っていた。

 

でも、何度も願っても叶ってないこともある。

 

今なら何で叶ってないのかわかる気がする。

 

本当にはそれを望んでなかったんだなということ。

望んでたら時間が掛かっても、少しずつそれを叶える動きが内に芽生えて、

もう叶ってたはずと何と無く思えるから。

 

引き寄せは

叶わないということも引き寄せる。

 

ということは、やっぱり今って

望んだ事しかわたしには起きてないのだと思う。

 

つい、うっかり誰かのせいにする気持ちも出て来るけど、

それは自分のせいでも、誰かのせいでもなく、

ただ、そうであったという事。

 

生きていくと様々な選択の連続で、

それは縦糸と横糸で紡いでいく織物のように

どこに何の色を入れるかで全体のデザインも変わる。

 

何を願うかは、それくらい大きいものなのだと思う。

叶わない願いでも、その時にその色を入れたかったわたしの痕跡は、

遥か彼方に少しの模様として残り、

今のそのデザインの中に確実に残りつつ、宇宙に広がり続けるのだ。

 

叶ったこと

叶わなかったこと

 

そんなことはもういいじゃないかと思う夜。

 

さぁ、これからの望みを本当に願おう。

 

今日はそういうことにしようじゃあないか!

 

 

 

ということで、今日はこれにて。

良い夢を。

 

 

 

無いんじゃない、見えてないんだよ。(お金について#1)

f:id:yurumaruhikiyose:20170425143340j:plain

 

今日は久しぶりにフリーの一日。

わたしにとってフリーとは仕事が入らなかった日の意味。

(お客様いらっしゃい!)

 

昨日、おしゃれな植物店で一瞬買おうか悩んでやめたモンステラが、

さっき近所のスーパーに買い物に行ったら、千円で売ってた!

一旦、食材を買って家に戻り、部屋を眺めた時、

ここに置いたらやっぱりいい感じだな、と思ったので、

再びスーパーへ出かけた。なんと陶器の鉢は300円で売っていた。や、安い。

 

昨日から急に植物が増えて来た。

1年間、ずっと欲しかった観葉植物。

植物と言えど生きてるものなので、簡単に迎え入れることも出来ず。

ここに来て、あたらしい仲間が欲しかったと素直に受け入れたら集合して来た感じ。

 

ちなみにこのモンステラは「ステラ」さんと名付けた。

この京都の部屋は惑星ruーmuと名付けているので、

ちょうどぴったりの名前となった。

 

わたしは一ヶ月のうち、湘南、東京、千葉、京都と移動してるので、

すごく忙しい人と思われてるところもあるようだが、

時間は結構あるので、自分では忙しいとは思っていない。

でも実際には自分が動かないと稼げないところもあるし、

来月どうなるのかなんてこともわからない。

 

それにしては余裕があるようにも見えるかもだけど、

「お金はなんとかなる」という自分の昔からの考え方が影響してるのだろうと思う。

 

それは、わたしにとってはこういう意味も含む。

 

・自分で稼ぐことも出来る

・足りなければ家族に頼る

・クレジットカードを使う

・要らないものを売る

・今やってることを辞めてお金のかからないようにする。

 

二番目と三番目って要するに人に借りるということなので、

なんとかなってないじゃーーん!って突っ込まれそうだけど、

 

そもそも「なんとかなる」の「なんとか」って何だろうと思う。

 

そこが自分でわかってないと、

お金の流れは掴めないし、なんともならないのかもしれない。

 

結論から言うと、

わたしにとっての「なんとか」は

今、生きられればなんとかなっていると言うことだ。

 

誰かに頼れるのも生きていればこそだ。

(ちなみにたまにカードを使う程度で人に借金はしてない)

あくまで考え方なので、自分でなんとかするのも前提。

 

 

子供の頃からお金が無い、うちは貧乏だと言う母がよくわからなかった。

実際に裕福ではなかったし、ファミコンや他のおもちゃも買ってもらえなかったけど、冷蔵庫を開けば食べ物は入ってるし、持ち家もあるし、

軽トラだけど車もあったし。なんで「無い」って言うのかが疑問だった。

疑問なので、あると思って、いろいろとちびまるこのようにねだっては、

「うちは貧乏なの!」と叱られた。

 

 

そのうちにわたしもだんだんそうなのか、と思って来て、

うちは貧乏だなって思ってしまっていた。

 

でもあの、卑屈になって、貧乏だからと思う度に、

ペタッと胸に張り付いてくるような、

なんとも暗い気持ちになる感覚がとても嫌だったのは覚えてる。

 

今はわかるけど

無いものを数えても

いくらたっても増えないんじゃ無いかと思う、

 

今、ここにあるものを感じた時に、

しあわせだと思えるかどうかで

自分の豊かさは決まっていくと思う。

 

 

少し話は違うかもしれないけど、

あたらしい星を探す人の話を何かで見たことがある。

毎晩、見つかるかわからない星をひたすらに何年も探して、

見つかっても、自分の名前がつくだけ。

 

数多の星の中でまだ見つかってない星を探すには、

あるという前提のもと、

 

まだ誰にも見えてないものを見る目が無いと見つからないのじゃないかと思う。

 

それはむやみに信じる力とかじゃなくて、

 

あるという目が、もうその人にあるから見えてくるものだと思う。

 

あるという目で夜空を見た時に、

あったというそこにいつかいけるのかもしれない。

 

 

そんなことを考えたとき、

わたしもあるという目で、お金についても見て行きたいと感じるのである。

 

お金は無いんじゃない、

(いま)見えてないだけ。

 

叶った願いについての考察#3

f:id:yurumaruhikiyose:20170424194944j:plain

 

本日は三重から友人が遊びにきた。

暑いくらいの陽気の中、近所を散歩しながら昨日も行った洋食屋(にんじん)でステーキを食べる。

ステーキを昼から食べるなんて贅沢だなあと幸せを肉とともに再び噛み締めた。

店を出て友人が以前に来た時に買った「かきもち」が美味しいのでまた買いに行きたいということで

詩仙堂方面へ再び歩いていく。

平日なので店がやってるかわからないと、開いてるの?開いてないの?

と友人が道すがら心配してたが、今日は営業していたので、

念願叶ってかきもちをゲットしていた。

人のちょっとした願いが叶っても嬉しいものだ。

わたしは買わなかったが風情もありいい店構えだったので写真を撮った。

 

 

その後、家に戻り、友人の車で以前から欲しいと思ってたエアプランツと、

他の観葉植物をバスで行くのはちょっと遠い

街中のおしゃれな植物店に買いに行けた。

今日も他力で願いが叶った。ありがたい。

 

他力といえば、今日は久しぶりに占いを受けた。

タロットカード占い。

内容はなかなかに大充実だった。

流れ的にも良いタイミングで情報を得られた感じ。

 

わたしは慎重なところと急に大胆になるところと両面があるので、

感覚的に流れをつかむのが得意な方だと思う。

今日の占い結果でもそれが出ていて、

あらためてスイッチが入った。

占い師の方とも相性がよかったのもあって、延長までした。

しめて40分4000円。それ以上の価値があった。

気持ちよくお金を払えて、なんだかスッキリ。

 

今朝になって午後からのセッションの予約のキャンセルが入ったが、

おかげで一日中、友人とこうしてゆっくり過ごせて、良い日だった。

 

さて昨日の続きを。

 

 

yurumaruhikiyose.hatenablog.com

 

第二時期の京都との縁は、

わたしが今の仕事関連のことを始めてからやって来た。

6、7年前になると思う。

個人セッションやワークショップをする時に各地でレンタルスペースを借りていて、

この時期もいろいろと新しいスペースを探している時期だった。

東京に住んでいた時に知り合った友人から、紹介をされたのが、

当時、京都駅八条口から約徒歩5分という奇跡の立地の古い民家を改装した面白いスペースだった。板張りで壁はコンクリート。でも可愛い小物などにも囲まれて不思議と落ち着ける空間、何より駅近なのにとても静かなのにびっくりした。

不思議な縁で知り合った、そのスペースの主宰者はゆうこさんという女性だった。

女性だったというのは何故か勝手に最初は男性だと思い込んでたので。

「面白いスペースが京都駅側にあるよ」と教えてもらった時には勝手に男性がオーナーだと思ってたので、

その後、実際に会って女性だったとわかった瞬間、急に心の人見知りブロックが外れ、

初対面だというのに今日泊めてもらえませんか?

とお願いしていた。

かなり図々しいと思うがゆうこさんは承諾してくれた。

それから3年間程、気ままにそのスペースをお借りして個人セッションやワークショップ、イベントなども行なった。

 

その通っていた時期に、まるで暮らすように京都での時間を過ごせていたことが、

今の京都暮らしに繋がっていると思う。

 

ある日、うどんを作ってくれてごちそうになっていた時に、

突然、過去の景色が蘇った。

あの薄色お出汁のうどん。

本場だ、京都だ、今、わたし、京都にいる!!

とあらためて気づいたのだった。

 

思えば遠くに来たもんだよ。

群馬の片田舎からここまでいろんな道筋を経てこうなってる訳だけど、

 

 

その瞬間は過去に自分で投げた

願いが今ここに届いたのをただ感じた。

 

投げた時はほんの小さなものだったから

叶うまで忘れてたけど、

叶ったら自分が願ったことを思い出したのだ。

 

言葉には子供の頃はできなかったけど、

京都という地からの何か良い匂い(お出汁の匂いだけではなく)

を感じてたのだと思う。

 

願いを叶えるには匂いを察知するのも大事なのだ。

鼻が効くというか、そんな感じで。

 

そして匂いで感じ取ったものを自分で創造していく。

 

実際にわたしは鼻がいい方だと思う。

良い匂いも嫌な匂いにも敏感。

 

でもこれは特殊能力ではないと思う。

 

匂いにも好みがあるように自分にとって何が良い匂いで、

何が不快な匂いなのかと知ることがまず大事なのだと思う。

 

もう今はあの京都駅近くのスペースはないけど、

いまだにあの玄関を開けて入った時の匂いは覚えてる。

 

それはわたしにとってなんだか懐かしくて良い匂いだった。

 

だから過去のわたしにも再会できたのだと思う。

 

 

叶った願いについての考察#2

f:id:yurumaruhikiyose:20170423193310j:image

 

今日は午前中の仕事を終え、ご近所友達と本屋で待ち合わせランチへ行った。

最近、食生活を変えてみて、お肉をよく食べるようになったので、

近所で肉料理を出す、美味しくて値段も手頃で雰囲気も良く1人でも入りやすい

そんなお店があればなあ。

と思ってたら、まさしくそのようなお店に友達が連れて行ってくれた。

ああ、まさしくこういう店を求めてた!と味や雰囲気にも大満足。

 

今日も引き寄せられたその喜びを

肉汁と共に噛み締めた。とてもジューシーな引き寄せだ。

 

その後、近隣を散歩。

春の花たちが満開。山の緑もみずみずしく、

本当に良いところに今居るんだなとあらためて感じた。

 

京都に住みたい。

という願いは思い起こせば第二時期は6年前くらいに発生し、

初期を思い出すと小学3年生の時に遡る。

最初は願いというか、憧れみたいなものだった。

 

群馬の山側に生まれ育ったわたし。雅なものを一切知らず。

せいぜい百人一首くらいか、

でもそれも群馬県民お馴染みの上毛かるたに押され気味だった。

そんなわたしの前に

京の都からまゆちゃんという転校生がやって来た。

何故か初めからまゆちゃんはわたしと仲良くなりたいと思ってくれてたらしいが、

わたしは他に仲良しの子がいたので、素っ気なかった。。。

というのはまゆちゃんと仲良くなってから聞いた。

なんて酷い。でもまあ、子供ってそんなもんかなと思う。

わたしも人見知りだったし、突然のニューカマーにおののいてたのかもしれない。

その後、どういう経緯か忘れたけど、中学校を卒業するまで部活も一緒で1番の親友になった。

よく彼女の住む社宅に遊びに行ったのだけど、お母さんがおしゃれな人で、

だいぶ我が家とは雰囲気が違った。食生活を垣間見てそれはいちばん感じた。

スープに手作りのクルトンが浮いてたり。

(このカリカリしてるのはクルトンという名なのか!ということも初めて知った)

おやつも京都から取り寄せた季節の和菓子がお抹茶と共に出てきたり。

 

うどんのお出汁も色が薄い!だけどよくわかんないけどすごく美味しい。

 

当時から食いしん坊だったわたしは、それだけで京都という地に魅了されたのだと思う。

 

こじつけに聞こえるかもしれないけど、引き寄せなんて結果が答えで、

そのプロセスはそういえばそうかも、くらいだとわたしは思ってる。

 

でも第二時期で京都がもっと身近になった時に、

あの時の薄色のお出汁のうどんを啜って感動してるおかっぱの女の子に

再会した気がしたのはわたしだけしかわからない事実。

 

タイムマシンに乗って、

あの時のわたしの耳元で「大人になったら、本場に行けるよ」

って言ってあげたら、きっと驚くだろうなあ。

 

あの時のわたしはそこまで思ってなかったと思うけど。

 

第二時期についてはまた後ほど。